マダム・アスペルガー

服薬なし、ADHD併発なし、二次障害なしのピュアなアスペルガーのつぶやき

理解できないこと

母と話していて気が付いた。

私は昔から「みんな」という概念が理解できない。

妹夫婦が共働きで子供を保育園に預けて働いているのだが、義弟が単身赴任になり妹のワンオペ育児。

あまりかまってあげることもできず子供が可哀そうという話をしたら母が

「都会なんて今時みんな共働きだよ」

 

ここで私はイラっときてしまうわけです。

この「イラっ」は、理解できないこをと言われたからのイラっだと自己分析してわかった。

みんなって誰?

みんなが働いてたら自分も働かないといけないの?

じゃあもしみんなが働いてなければ自分も働かなくていいの?

 

おそらく健常の人が共有している概念が理解できないとい起こる現象。

みんなやってるから自分もやるというのが全く理解できない。

私が同調圧力に屈しないのはそれが原因なんだろう。

 

共有できないメリットも大きいからこの障害が治せますよと言われてもきっと断るだろう。

 

 

年金

ダメもとで申請したいので診断書を書いてもらえないかとお願いすると、僕は書かないとの返事。

私のように軽い人が年金をもらうと、生活に困ってしまうような本当に必要な人がもらえなくなるとのこと。

私は働いていた経歴がある。

発達障害の程度は重いがIQの高さでカバーできる。等々。

自分が相談員だったらよくできた医者だと褒めたいが、自分が当事者の立場ならクソ煩わしいことこの上ない。

年金を受給できるかできないかを決めるのはおめえじゃねえ!

年金はこれまできちんと納めてきた人がもらえる権利だ!

と言いたいが、あえて抑えた。

医者は患者との議論が嫌いだ。

ここで言い争うのは賢くない。

とりあえずこの主治医は自分のお眼鏡にかなう人しか診断書を書かないらしい。

 

必要になれば転院すればいいだけなのだ。

 

 

 

 

 

特性

私にとってその辺にいる虫の命も自分と関係ない他人の命も同じだ。

他人が何億人死のうが私にとってどうでもいい話でしかない。

そんなことで私の心は欠片も動かない。

これがすべての前提としてある。

 

例えば元首相が殺された。

それはこれまで人知れず苦しんできた二世を救済するために必要な命だったとしか思わない。

福知山線で犠牲になった人たちはJRの体質を変えるのに必要だった。

 

ヤフーのコメントなんかで「まずはご冥福を祈ります」と一言添える人がいるけど本気で言っているんだろうか。

冥福なんて、私にはすでに故人ことなのだからどうでもいい話だ。

 

何かで犠牲になった命はその問題を議題に載せるために必要な命だと思う。

そうやって古来より人は何かを犠牲にし改善を重ねながら生きてきた。

無駄ではないのだ。

そんな風に人をコマとしか考えられない所が「人の痛みがわからない」私の特性なのだ。

 

それがどれほど人を傷つけるかわかる。

けれど人を思いやったり痛みを推し量ることができないのだから仕方ない。

どうにもならないこと。

どうにもならないんだ。

 

カミングアウト

話の流れで母に伝えた。

子供を障害者にしてしまった。

育てにくかっただろうにここまで育ててくれたことを感謝していると伝えた。

それが普段素直ではない私にとって精一杯の表現だった。

 

 

 

二次障害もなく自己肯定感の強い子になったのは、私の意見を否定せず受け入れてくれたからだ。

私がやることを暖かく見守ってくれたからだ。

本当に心から感謝しているのに上手く伝えられない。もどかしい。

そういえば昔はよく頑固だとかへそ曲がりだと言われたっけ。

 

申し訳ない。

誰のせいでもない。

私は生まれてこない方がよかったのかもしれない。

だけど私は生まれてきてよかったと思っているんだ。

 

 

 

旅行記

思い付きでUSJに行ってきました。

そこで気づいたことなど。

 

思い付きなんで並んで当日券を購入。

ミライロIDを提示して4,700円でした。

 

トボトボ歩きながらそういえば園内マップをもらっていないことに気づき、障害者割引だともらえないのだろうかと近くのスタッフからもらおうと思ったらなんということか、今年の2月に廃止になったとのこと。

スマホで確認するように言われました。

実は私はスマホの地図が苦手で、拡大したり縮小したりするとその前後の地図とのイメージが結びつかず別の地図を見ているレベル。

スマホなんで自分がどこにいるかはわかるけど目的地までどう行けばいいかわからない。これはワーキングメモリの低さがなせる業なんでしょう。

それよりも紙の地図で今いる場所と目的地とその道順を一目で確認した方が理解しやすいのです。

初めての場所に行く時はいつも紙に手描きの地図を描いて持っていくのです。

が。園内マップはもらえるものだと高をくくっていた私が悪いのか。

こういう障害があるから申し訳ないけど紙の地図がほしいということを言うと、親切にもゲストサービスまで案内してくれました。

けれどそこでは紙の地図はないからこれを写メって使ってくれと園内マップを持ってこられ、また再度説明。

ようやく紙の地図をもらうことができました。

 

手帳を取ってよかったのは、これまでできなかったことがこれ障害だからできなかったんだなということが理解でき、それについては頑張ったり我慢しなくてもいいと思えるようになったこと。

ただし可能な範囲で。

 

 

人生の最盛期

お題「人生の最盛期」

 

それは前職で仕事をしていた時。

資格を取って地域の中核で相談支援の専門職として働いていた。

 

ずっと働きたいと思ってた。

ずっと働けると思ってた。

 

だけど自分の限界に気づいて、自分の特性ではどうしてもできない仕事を任されたとき、終わった。

 

もうそこには戻れないけど、もし自分に障害がなければ、とも思う。

障害のせいにしてはいけないのはわかるけど、どんなに頑張ってもできない、努力ではどうにもならないこともある。それは悔しいが諦めるしかない。

 

ただ、今は今で毎日楽しくそれなりに幸せではある。

いつだって今が最盛期で生きてこう。

 

 

当事者会

当事者会に参加した。

 

フツーの人に見える人から一見して発達障害とわかる人まで様々。

ただ、全員発達障害という共通点があるためかなんとなく解放感。

もちろん集団の中で人として気を使わないといけない部分はあるけど健常者のふりをしなくていいのはなんて気楽なんだろう。

 

例えば相手が「二次障害がつらい」と言った時。

相談員であればそれに寄り添うべきなんだろうけど当事者会ではその必要がない。

そして、私は無理をして表面上寄り添ったをしていたんだなということを自覚する。

些細な会話を糸口に、その人はどんな生活をしているのか、何に困っているのか、どのような支援が必要かを探っていく。

当事者に対してそんな目線を向けてきたけれど、もうその必要はない。

 

 

発達障害者の集団というのは私にとって居心地がいいというのがわかった。

気を使って話さなくていい。

一人ポツンながらも自分を排除しない集団の中にいる。

それがなんとも良いのですよ。

ええ。一人ポツンでしたとも。でも一人だけど一人じゃない。

ポツンの人は他にも結構いて、割合的にはASDの人の方が多い感じでしょうか。

でもASDの人だけだとポツンすぎてまとまりがない。

それをまとめるにはADHDの力が必要なんだなあとしみじみ実感。

ADHDの人は時にリーダーとして社会で上手くやっていける力があると思う。

前の職場の上司が同じタイプだけど、本人曰く「友達がいない」

でも彼が声をかければたくさんの人が自然に集まる。

これをやるとなった時、必要な人手がそれぞれの力を発揮して形をなす。

決して横暴ではなく、それぞれの性格や事情を理解し仕事を任せてくれた。

私から見たら眩しい存在。

 

 

家に帰ったら一人反省会になるんわけだけど、こういうのあったらまた参加したいな。