多くの発達障害の人がそうなんだろうけど、私も「普通」に擬態する生き方をしてきた。
ネットも何もない時代、誰に教わることもなく、「普通」を模範にして、この世の常識に合わせようと必死だった。
考えてみれば小学生の子が国語辞典や六法全書読読むのが趣味だったなんてそれ自体が異常だった。
私は擬態が得意ではなかったと思う。どこに行っても「普通じゃない」「変わってる」「なんか変」等々人に違和感を与えまくっていた。
表面的には「優等生」だったから少し変わってても見逃してもらえた。
まじめで口数少なくおとなしい、でも変わった子。
「普通」や私のどこが普通じゃないかを教えてくれる人はいなかった。
誰も。
あなたの狭い価値観で他人を変人扱いしているだけでは?
と思うこともあったけれど、結局共通認識である「普通」の枠に入れてもらえなかった。
普通になりたい。
明確にこれが普通ですよという答えがあれば、それを擬態することはできるかもしれない。
模範がないものを擬態することはできない。
だけど、それを示してくれる人はいない。
普通じゃないのに生きられるほど、この国は度量が広いわけではない。
もしかしたら世界のどこかに自分を「普通」に扱ってくれる国があるかもしれない。
世界基準の指標で検査してるんなら発達障害はどこに行っても発達障害でしかないが。
でも普通に堂々と生きられる場所があるといい。